2010年10月24日日曜日

全米に広がる教員評価を考える


(教育政策担当:鈴木)
昨日、ロサンジェルスのニュースをピックアップしたばかりだが、今、value-added assessmentという比較的新しい手法による教員評価が全米で話題になっている。今日は、反対側のニューヨークにおけるニュースが飛び込んできた。

「ニューヨーク市、教員評価の公表を延期」

 ニューヨーク市は、来月予定されている法廷での審問の結果が出るまで、12,000人の教員個人評価の公表を延期することに同意した。この件に関しては、NY市教育長がvalue-added assessmentによる教員評価を公表する意向を表明したことを受けて、教員組合(UFT)が実証されていない手法による評価だとして禁止令を法廷に求めていた。組合側は、サンプルサイズが小さいこと、そして様々な外的影響が生徒のテストの点数を左右することなどが、評価の不安定性に繋がっていると指摘している。また、特筆すべきは、ビデオクリップで詳しく説明されているが、NY市がvalue-added assessmentの導入を決める要因になったコンサルタントのレポートには、この手法のみで教員の給料やテニュア昇格などの重要な決定をすべきではないと警告されていることだ。

 また、教員の個人評価を公表するという選択には、一つの決定的な問題がある。それは、学力低下の打開策を教員のインセンティブに見出していることだ。しかし、学力低下の要因がインセンティブの欠如にあるとするなら、生徒の学力向上に必要な知識やスキル、そして良い指導のノウハウを教員は既に持っているということになる。適度なインセンティブさえ与えれば生徒の学力は伸びるであろうという仮説はあまりにも短絡的だ。また、加速するチャータースクール推進運動2 ~アメリカ教育界を蝕む病理~でも触れたが、数学と国語の標準試験の点数を「学力」と呼べるのかどうかという点においても議論の余地は十分にある。

 更に、公立学校の教員配置をめぐる不平等については加速するチャータースクール推進運動3 ~今日の教育改革を支える第一のイデオロギー~ で既に述べた。経験も知識も豊富なベテラン教師は、学校の成績優秀者だけを対象にしたAdvanced Placement AP クラスだったり、裕福な地域で恵まれた子どもたちが集まる学校だったり、良い教育環境で教えている。それに比べ、経験も知識もない駆け出しの教員や非正規免許講師が、最もニーズの高い生徒たちを教えているのだ。

 教員評価によるインセンティブなど、妥当性のない打開策を求めるより、ニーズの高い子どもたちを教えることの大変さと尊さがしっかりと評価され、それを全力でサポートする体制作りが先決なのではないだろうか。本来であれば、最も難しい子たちを任されることが教師にとって最高の名誉である。しかし、試験の点数だけで教育を図ろうとする現在のシステムでは、優秀な教員が貧困地区から逃げ出すのも無理はない。

2010年10月23日土曜日

「ロスの教員自殺、教員評価の在り方に波紋」



(教育政策担当:鈴木)

8月に新聞社LAタイムスがウェブ上で公開した教員評価が原因で自殺したとみられる教員の件が、生徒のテスト点主体の教員評価に新たな波紋を広げている。

自殺したのは39歳の男性教諭。ロスのダウンタウンから10kmほどの貧困地区にある小学校で5年生を担当していた。自ら難しい生徒の担任を志願し、ギャングに入ろうとしている子どもを説得したり、放課後居残って勉強を教えたりするなど献身的で、生徒や保護者からの評判も良かった。自殺の理由は定かではないが、学校での会話などから、自分に対する低い評価がLAタイムスによって公開されたことに非常にショックを受けていたという。

学区の教育委員会は8月、新しい教員評価として、最近話題の “value-added assessment” の採用を決定した。しかし、この手法は生徒の試験での点数を重視するため、マイノリティーや英語を母国語としない生徒の多い貧困地区での使用に批判の声も上がっている。

2010年10月21日木曜日

『大学中退者、納税者の負担は数千億円』

(教育政策担当:鈴木)

アメリカでは4年制の大学に入学し、6年以内に卒業する生徒数は60%に過ぎない。今月発表されたAmerican Institute for Researchレポートによれば、4年制大学で2年生以前に中退した学生のために、5年間で$9 billion(約7290億円)以上の税金が国や州政府から支出されている。

アメリカでは大半の学生が公立大学に通っているが、それらの大学は運営資金や生徒への奨学金などの面で州政府からの多大な援助によって成り立っている。国全体としては一人につき1年間およそ$10,000(約81万円)、州によってはそれ以上の金額が税金から支払われていることになる。また、私立大学においても、様々な項目で資金的支援を州・連邦政府から受けているという点で、納税者による負担は例外ではない。

これらのデータは大学卒業率の向上が必要とする議論を後押しする要因になる一方で、その他の主張―必要以上の学生が4年制大学に通っている、これらの学生を無理に卒業させようとすることで更なる税金が無駄になる等―の推進につながることも考えられる。

記事原文

2010年10月19日火曜日

『あいつぐ底辺校閉鎖。ホームレスの生徒に深刻な打撃』


 アメリカ中で学力底辺校や資金的に経営継続が困難な学校の閉鎖を後押しする圧力がかかっている中、学校閉鎖が急激に増加しているホームレスの生徒に深刻な打撃を与えている問題が浮上してきた。最近の研究によると、学校閉鎖によって多くのホームレスの生徒が新しい学校に配属される援助を受けられない状況にあるという。(記事原文

2010年10月15日金曜日

迫りくる "Teacherpreneur" の時代

(教育政策担当:鈴木)

未来の教育をテーマにした本の中で、実績のある教育者たちが
想像するリーダー的教師たちの新たな役割。


 年末に出版を控えた一冊の本がある。著者はバーネット・ベリー(Barnett Berry)とTeacherSolutions 2030 Teamという経験豊かな教師たちによって構成されるグループで、Teaching 2030: What We Must Do for Our Students and Our Public Schools─Now and in the Future というタイトルだ。

 彼らは本の中で、2030年には数多くの entrepreneurs 事業家) ならぬ teacherpreneurs が必要とされるだろうと主張している。では teacherpreneurs とはいったい何のことなのか。それは、実績のあるリーダー的教師たちが、教壇に立ちながらもシンクタンク、大学、教育政策などに従事して自らのスキルや専門性を他に広げていく、教員と事業家という新しいハイブリッドの形だ…。


2010年10月13日水曜日

加速するチャータースクール推進運動3 ~今日の教育改革を支える第一のイデオロギー~


(教育政策担当:鈴木)

前回の投稿で、チャータースクールに関しては議論すべき点が数多くあると書いたが、今回はその続きを考えてみたい。



一つは、今日の教育改革ディスコースを支えるイデオロギーの妥当性だ。これは、Waiting for a Superman上映後のパネルディスカッションでコロンビア大学Teachers Collegeジェフリー・ヘニッグ(Jeffrey Henig教授が指摘した点だ。

ヘニッグ教授は、Spin Cycle: How Research Is Used in Policy Debates: The Case of Charter Schools.の著者で、この本で全米最大で最も権威のある教育学会であるAmerican Education Research Association (アメリカ教育学研究学会) から2010年のOutstanding Book Awardを受賞したチャータースクール及び学校選択の権威だ。 

 ヘニッグ教授の指摘によると、今日の教育改革ディスコースを支えるイデオロギーは主に二つある。

   第一に、質の悪い教員をクビにすること。

   第二に、一流大学から教員をリクルートすることだ。



 最初のイデオロギーから考えてみよう。ここで言う「質の悪い教員」というのは前回の投稿からも分かるように、標準テストにおいて標準を大きく下回る点数を取っている生徒を教えている教員ということになる。

 しかし、だ。予算の大半が地区の土地税によって賄われているアメリカの公立学校教育予算システムでは、裕福な地域では貧しい地域とは比べ物にならない程贅沢な教育予算があてがわれ、優秀で経験豊富な教員は皆、都市部の劣悪な教育環境を捨てて郊外の裕福な地域に行ってしまうことは周知の事実だ。つまり、優秀で経験豊富な教員こそ恵まれた環境で育った子どもたちを恵まれた教育環境で教えていて、都市部のスラムに住む最も助けを必要としている子どもたちが最もスキルも経験も無い駆け出し教員や非正規免許講師によって、しかも劣悪な教育環境の中で教えられているのだ(Lankford, H., Loeb, S., & Wyckoff, J. (2002). Teacher sorting and the plight of urban schools: A descriptive analysis. Educational Evaluation and Policy Analysis, 24(1), 37-62.)。
 
 この問題に関しては、一つ面白い事例がある。今年初め、莫大な負債を抱えるカリフォルニア州にて、ロサンジェルスの教育長が大幅に削減された教育予算を理由に、成績の悪い学校を対象に5000人以上の教員を解雇した。そして、それらの学校では実に半分近くの教員が解雇される学校も少なくなかった。これは、教員組合の「Last hired, first fired」(解雇は教員経験の浅い順に行われる)という規定により解雇を実施したために起こった現象だが、成績の悪い学校こそ経験の無い教員が集中していることを実証している。

 また、つい最近、RENEE v. DUNCAN (2010)という裁判があったばかりだ。マイノリティー及び低収入家庭の生徒が大半を占める学校の40%以上のの教員がTeach for AmericaTFA)などのインターン(非正規教員免許保持講師)であることをマイノリティーの生徒、保護者やその他の市民団体が、No Child Left Behindで定められている「全ての教室に質の高い教員を配置する」という規定に反しているとの違法性を訴え、アメリカ教育相アーン・ダンカン(ARNE DUNCAN)を相手取ってアメリカ連邦控訴裁判所から、審議の妥当性ありとする判決を勝ち取ったのだ。(詳しくはこちら

 ただ単にダメな教員をクビにしたところで、教える側にとっての教育環境改善なしに質の高い教員を誘致することは難しく、回転ドアのようにスキルも経験もない教員が出入りするだけだろう。また、この問題を無視してチャータースクールを推進したところで、公立学校における教員配置をめぐる不平等の問題解決にはならない

(続く…。)

加速するチャータースクール推進運動2 ~アメリカ教育界を蝕む病理~

(教育政策担当: 鈴木)



 前回に引き続き、デイビス・グッゲンハイムの新作映画、Waiting for a Supermanを通して、アメリカで加速するチャータースクール推進運動を考えていきたい。

チャータースクールに関しては議論すべき点が数多くあるのだが、今回はこの映画を通して見えてくる、今日のアメリカ教育界を蝕んでいる一つの病理について考えてみたい。

それは、教育に関する評価が全て「テストの点数」という極めて狭い定義ではかられていることだ。Waiting for a Supermanでも、良い教員はただ単に生徒の点数を挙げられる教員、悪い学校は生徒の点数が全体的に低い学校という評価の在り方を前提として教育改革が語られている。

もちろん、子どもの学力は教員や学校評価の大事な要素だ。ただ、学力は教育の一つの側面にすぎない。ましてや、「学力」が確かに現在の標準テストで測れているのかどうかにも疑問が残る。2002年1月から施行されているNo Child Left BehindNCLBによって、連邦政府が全ての州に測定義務を貸しているのは4年生と8年生(日本でいう中学2年生)の国語(読み、書き)、数学、科学の3教科のみ。これが現在アメリカで定義されている「学力」だ。この3教科でさえ、現在のテスト内容では子どもの学力が正当に評価できないのでは、と多くの教育者が問題視している。

また、生徒がいくら社会や体育、そして音楽などの教科で突出していても、その子の「学力」としては全く評価されないことになる。ハーバード大学の発達心理学者、ハワード・ガードナーHoward GardnerFrames of mind: The theory of multiple intelligences という本によってTheory of Multiple Intelligences(多重知能理論)を打ち出したのが1993年。アメリカには、「インテリジェンス」というものが一つの狭い定義に押し込められていて、そのため多くの「知性」に富んだ子どもたちが劣等生のレッテルを貼られていると主張し、アメリカだけでなく世界における教育価値観を揺るがした。(ちなみに、Joel Kincheloeらが、ガードナーの理論を元にして教育における「知」の不平等について非常に興味深い議論を展開している。Kincheloe, J. L., Steinberg, S. R., & Villaverde, L. E. (Eds.). (1999). Rethinking intelligence: Confronting psychological assumptions about teaching and learning. New York: Routledge.)しかし、実に10年の間にアメリカは発達心理学とは逆行した教育政策を展開するようになったのだ。

それだけではない。学校カリキュラムにおける思わぬ弊害も出てきている。生徒の成績がなかなか上がらない都市貧困地域や農村地域では、4年生と8年生では標準テストで評価される3教科のみしか教えていない事実が発覚している。結果、社会をまる2年教わっていない生徒も出てきているということになる。義務教育というものについて考えさせられてしまう。NCLBが推進する標準学力テストとアカウンタビリティーの弊害については、デイビッド・ベルリナー(David Berliner「狭まるカリキュラム」“narrowing of the curriculum”)として面白い論文を発表している。(Berliner, D. (2009). MCLB (Much Curriculum Left Behind): A US calamity in the making. The Educational Forum, 73, 284-296.

今日アメリカで施行されている教育政策やアメリカ国内における教育のディスコースのほとんどは、上に見られるような「学力=3教科の点数」という前提の下に行われていると言って過言ではないだろう。

よって、ただやみくもにチャータースクールを推進する前に、まず教育と学校の意義についてしっかりと議論する必要性がある。もしGardnerKincheloeらが主張するように、「知性の民主化」を図るとするならば、今の教育評価を根本から見直されなければならない。



 今、問われている事、それは「教育とは何か?」という教育の本質を問う問題だ。


(続く…)

2010年10月12日火曜日

加速するチャータースクール推進運動(1)

(教育政策担当: 鈴木)

 現在アメリカでは、全国学力テストにおいて低迷している公立学校を潰してチャータースクールを増やそうとする動きが加速している。オバマ政権もRace to the Topなどの連邦政府が出資する様々な助成金の申請資格として、各州によって決められたチャータースクール数の上限拡大を求めるなど、この運動を積極的に推進している。そしてもう一つ、この運動の一翼を担っているのがアメリカのメディアだ。特筆すべきは、今年、Waiting for a Superman, Lottery, そしてTeachedという、実に3本の「ドキュメンタリー映画」が立て続けにリリースされ、チャータームーブメントの更なる加速は必至とみられる。




 上で、「ドキュメンタリー映画」とカッコでくくったのには理由がある。これは、先日コロンビア大学Teachers College (TC) にて行われたWaiting for Supermanの先行試写会後のパネルディスカッションでAaron Pallas教授が言った言葉だが、少なくともWaiting for a Supermanに限ってはドキュメンタリーというよりチャーター推進のためのプロパガンダフィルムだ。(前評判を聞く限り、他の2本のフィルムもこれとさして変わりはないようだが…。

彼が面白いことを言っていた。

「プロパガンダにはあるパラドックスが内在している。プロパガンダとは、民衆を開眼させ彼らの意識を広げる一方で、それをまた一つの極めて狭い解決策へと扇動する。」

 Waiting for a Supermanはまさにこの言葉の通りだった。笑いあり、涙ありの、観客の心に直接訴えかける力を持つよい映画だ。『不都合な真実』 でオスカーを受賞したことでも知られる デイビス・グッゲンハイム (Davis Guggenheim) がアメリカの悲惨な公立教育の現状をテーマに挑んだもので、『不都合な真実』 と同様に世論を大いに動かす力を持っているとメディアの評価も高い。幾つかの酷い公立学校と素晴らしい成績を残しているチャータースクールをコントラストさせ、公立がだめでもチャーターという選択肢があること、しかしながらアメリカの貧しい家庭に生まれた子にとっては、そのようなチャーターに入り人生で成功できるかどうかはクジ引きによって決められるのだという厳しい現実が実に良く描写されている。

 しかし、だ。何故そのような現実があり、いかなる解決策があるのかということに対する分析は、あまりにも短絡的だ。アメリカの公立学校が低迷しているのは、質の悪い教師たちと彼らを守っているテニュア制度及び教員組合であり、改革の鍵は組合の撤廃とチャータースクールにあると言うのだ。教育と真摯に向き合っている人なら誰でもわかることだと思うのだが、問題も答えもそんなに簡単なものではない。

(続く…)