【主張】教育政策担当: 鈴木
社会を取り巻く大きな流れが、教育という場でいかなる形にて表現されるか。
教育を社会から切り離して考えることはできない。だからこそ、ある教育政策や教育問題を見つめる時、それを取り巻く社会的、政治的、文化的、歴史的背景の中に位置づけることが必要となってくるのであり、時空から独立した一つの点として教育だけを抽出してみても、問題の本質もわからなければ、その解決にもならない。
過去4回、カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインの世界的ベストセラー、『ショック・ドクトリン』をレンズとして、1973年のチリのクーデターに始まり、2003年のアメリカによるイラク進出、2004年のスマトラ沖地震、2005年のアメリカ本土を襲ったハリケーン・カトリーナなど、一見「アメリカ教育最前線」とは何の関係もなさそうなことについて書いてきた。『ショック・ドクトリン』の最大の意義は、これらの事件を通して見えてくる新自由主義の世界的な広がりを綿密な調査と膨大なデータに基づき、実に約600ページに渡って描き出す(引用されたデータは全てウェブにアップされている)ことで、教育など、今日のアメリカ事情をその大きな流れの中で分析する術を与えてくれることだ。
現に、クラインのセオリーはノーベル経済学賞受賞経済学者のJoseph E. Stiglitz(2001年受賞)やPaul Krugman (2008年受賞)を始め、様々な学術分野で広く引用されている。教育学も例外ではない。若手のKenneth Saltmanや2010年のAmerican Educational Research Association (AERA)並びにAmerican Association for Teaching and Curriculum (AATC)両団体の年間最優秀賞を受賞したPeter Taubmanも、受賞作品Teaching by Numbersの中でショック・ドクトリンがいかにして教育の場で用いられてきたかを綴っているし、クラインの分析はHenry Giroux(Beyond the biopolitics of disposability: Rethinking neoliberalism in the New Gilded Age)やCameron McCarthy(The new neoliberal cultural and economic dominant: Race and the reorganization of knowledge in schooling in the new times of globalization)などの巨匠の研究をもインフォームしている。
ちなみに、過去4回の投稿が、過激すぎる!偏っている!日本の人々の不安を煽っている!最初の主旨からずれている!アカデミックじゃない!一緒にされたくないっ!!とのお叱りをこのブログの編集仲間たちから頂戴し、この一週間、人知れず大いにへこんでいたところだ。また、「ニューオーリンズに行ってから変わった」との指摘も受けた。確かに心当たりはある。今回そこら辺から始めようと思う。ただ、シリーズタイトルの「日本への警告」に関しては、色々考えたがそのまま残しておきたいと思う。実際、少しでも日本の人々の危機感を高めることができたなら、という気持ちでこれを書いている。書かずに後で後悔するくらいなら、オーバーリアクションと取られた方がよっぽどましだ。ナオミ・クラインは、ショック・ドクトリンに立ち向かうには、我々が「ショック・レジスタンス」(ショックに耐え得る力を持つこと)になることだと言っている。そして、インフォメーションこそがその鍵なのだと。少しでもインフォメーションの共有に貢献できればと思う。
では、忘れる前に…。
*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。
およそ一か月前、学会発表のため、ニューオーリンズに行ってきた。自分の発表の他、著名な学者たちの発表を見るだけでなく、2005年のハリケーン・カトリーナが残した爪跡を見学したり、このブログから始まった「世界から日本へ1000のメッセージ」のメッセージを地元の人々から集めたりと忙しく動き回ったが、自分にとっての最大の山場は意外なところにあった。
滞在最後の夜、ニューオーリンズの教員組合とAmerican Educational Research Association (AERA)のSocial Justiceグループが合同開催したイベントに参加したのだ。University of Wisconsin-MadisonのMichael Apple教授が参加するセッションを探していて偶然見つけたものだった。(実際には彼は当日欠席となってしまった。)そこには地元の教員たち、彼らと密接に仕事をしているKristen Burasという一人の若い教育学者(Appleの弟子でもある)、それにAERA参加のためにニューオーリンズを訪れていた大学院生やごく少数の学者たち、およそ40名が集まった。
前半は地元の教員たちとKristen Buras教授が、カトリーナ後のニューオーリンズにおける教育政策について一人ずつ話をしたのだが、そこで聞いた話はどれも耳を疑うような悲惨なものばかりだった。まずはカトリーナの翌年早々に、“disaster unemployment”(災害解雇)と称して、ニューオーリンズ市の教師が4000人一斉に解雇されたこと。そして解雇されたうち4人に3人は黒人であったこと。どうしても復職を希望する教員は、8つの異なるテストをパスすることが条件として求められたこと。そのような屈辱を受けることを拒否し、他の都市で教えることを選んだベテラン教員が数多くいるということ。運良く解雇を免れた者も、それまでの倍以上のお金(月々$790)を自己負担しなければ福祉の手当ても受けられなくなったこと。損害を免れ再び開校した学校も、成績が悪いとの理由で次々と閉鎖、チャーター化され、その度に教員は一斉解雇されたこと。自分が以前勤めていた学校がチャーター化された場合、定年者は福利を受ける権利を剥奪されたこと。それらの理由により、ニューオーリンズでは何歳になっても安心してリタイアできない状態であること…。
これらの実体験を教員たちの口から聞くのは、非常にパワフルな体験だった。5週間前に第一子を出産したばかりというニューオーリンズ出身のKristen Buras教授も、2005年以降ニューオーリンズで「改革」の名のもとに実施されてきた政策を感情露わに批判していた。そのようなことを一つも知らなかった自分は愕然とし、「伝えねば」という強い想いが自分の中に芽生えるのを感じていた。この、「日本への警告」シリーズを書き始めたのは、まだ興奮冷めやらぬニューヨークへの帰りの飛行機の中だった。ニューオーリンズに行ってからトーンが変わったと言われても仕方のないことなのかもしれない。
ニューヨークに戻り、カトリーナ後のニューオーリンズの教育政策をリサーチし始めると、二つのことがわかってきた。一つは、壊滅的な被害を受けたニューオーリンズの学校システムが、市場型教育改革(又は新自由主義的教育改革)の実験場として絶好の機会を提供したこと、二つ目はその「改革」の手法―ショック・ドクトリンの教育政策における適用―が今日のアメリカの至る所で使われており、結果的に公教育の危機を招いているということだ。その意味で、昨年のロードアイランド州に始まった教員一斉解雇の動き、ウィスコンシンから広まった今日の公務員団体交渉権剥奪運動、全国で広がりを見せる教育の民営化運動を正確に読み解く鍵がニューオーリンズにあると思っている。
(続く…)
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