2011年6月23日木曜日

チャータースクール主流化の問題点 (日本への警告8 / 加速するチャータースクール推進運動4)

【主張】 教育政策担当: 鈴木

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。 

まえがき

 『日本への警告』シリーズでは、いかにハリケーン・カトリーナによって大被害を受けたニューオーリンズの従来の公立学校システムが、再建されることなく政府に見捨てられ、代わりに導入された史上最大規模のバウチャー/チャータースクール化によって、積極的に解体されていったかを書いてきた。前回も触れたが、現在、ニューオーリンズは都市としてアメリカで最多のチャータースクールを誇る。そして2012年までにはおよそ市内75%の公立学校がチャーター化されるという(Institute of Race and Poverty, 2010)。『加速するチャータースクール推進運動』でも書いた通り、成績の悪い公立学校を潰してチャータースクールに作り変えるというのは、ニューオーリンズに限らず全米に広がる動きだ(カンザスシティーニューヨークデトロイトの例)。前回も述べたように、私はチャータースクールというアイディア自体に異論を唱えているわけではない。ただ、本来オルターナティブとして生まれたチャータースクールをメインストリーム化しようとする動きには危機感を抱いている。今回はその問題性を政策の視点から考えたい。
チャータースクールはどれくらい成功しているのか
 まず、チャータースクールは従来の公立学校と比べ、良い成績を残しているかのようなイメージがあるが、これは大きな間違いだ。実は、従来の公立学校をテストの点数において凌いでるチャータースクールは5校に1校(17%)もない(Center for Research on Education Outcomes (June 2009). Multiple choice: charter school performance in 16 states. Stanford University.)。よって、チャータースクールの中でも大きな格差があり、むやみにチャーター化を進めることは危険だ。


成功しているチャータースクールを全国規模で展開できるのか

 では、成績を残している一握りのチャータースクールをモデルとして増やせばよいかと言えば、これも安易な考えであると言わざるを得ない。実際、KIPP, Harlem Success Academy, Harlem Children’s Zoneなど、年々拡大し、“McCharter”と呼ばれるフランチャイズのチャータースクールもあるが、これらの学校は共通して、他のチャータースクールとは比べ物にならないほどの資金を主にプライベートセクターから調達している。

Harlem Children’s ZoneHCZ)を例にとってみよう。HCZの資本の3分の2はプライベートセクターからの寄付によるもので、2009年の時点で既に$200 millionに達する勢いだった。また、ニューヨーク市の従来の公立学校では、一人の生徒につき$14,452の予算がつけられているが、このうちの半分以上は教室内の学習指導ではないものに使われる。それに比べ、HCZでは、教室内の学習指導のみに一人$16,000ものお金をかけている。また、HCZの高校では、各学級の生徒数は平均して15名以下。それに対して通常2名の正規教員がつくという贅沢な教育環境となっているLauded Harlem Schools Have Their Own ProblemsDobbie & Fryer (2009)が指摘するように、課題は、似たような成績をもっとコストのかからない方法で達成する道を模索するであり、これらの恵まれた要素が揃ったチャータースクールを青写真として全国規模で展開することには無理があると言わざるを得ない。


市場理論だけで教育の質を高めることができるのか

 次に、『現代アメリカ教育を支配する価値観 ~市場型教育改革を考える』でも書いたように、 チャータースクールやその他の学校選択制は、1983年の『危機に立つ国家』の出版以降、アメリカで台頭してきた新自由主義的市場型教育改革の一つであり、今日、アメリカ連邦政府の教育政策はこれらの改革一色に染まりつつある。しかし、連邦政府がNo Child Left Behindによって確立したスタンダードとアカウンタビリティーシステムやRace to the Topによって推進した教員のメリットペイ (能力給制度)と今回問題にしているチャータースクールやバウチャーなどの学校選択制を見れば良く分かるが、これら市場型教育改革の一つの問題点は、どれも確固たる教育学的根拠に基づいていないところだ。つまり、このような教え方をしたら生徒の学力がこのように伸びた、問題行動を繰り返す子にこのようなインターベンションをしたらこのような変化が見られたなどという、ミクロで人間的なやりとりに根差した教育学的研究からは距離を置き、主に教育市場におけるインセンティブやレバレッジというマクロで無機質な発想によって教育を改善しようとしているのだ。

 その結果、成績の悪い学校は売り上げの悪い店舗のようにどんどん閉鎖され、教員も1000人単位で解雇されている。確かに、何の競争もアカウンタビリティーも存在しない公共システムは腐敗する。だが、真にコンペテントでアカウンタブルな教育システムを造るなら、学校閉鎖や教員解雇で満足するのではなく、何が問題だったのか、どうしたら改善できるのかという、根源的でより難しい問題と向き合うことが求められているのではなかろうか。

王道を極めるためのオルターナティブであれ ~学校選択制と平等の問題~』でも示唆したように、チャータースクールには、本来の理念通り、古くなった公立学校システムに新たな風を入れるためのオルターナティブであって欲しいと思う。

2011年6月18日土曜日

教育費の国際比較は可能なのか?(2)

まず、第一の論点「一人当たり教育費の方がふさわしいのではないか」という点についてみてみよう。

日常的な感覚からすれば、一人当たり経費というのは、GDPに占める教育費よりも妥当な金額であるかのように思われる。面倒を避けるため正式な定義をここでは紹介しないが、GDPとは国・地域の経済規模を測る指標と考えてもらいたい。さて、経済規模と言われても何のことだかハッキリしないが、家計とのアナロジーで理解するのが、正確ではないが分かりやすい。(無論もっと正確な議論が知りたい方は、文部科学省が毎年発行している、「データで見る日本の教育」を参照されたい)

山田家は、サラリーマンの父親と専業主婦の母親、さらに小学生の息子と娘のいる一家だ。父親の稼ぎは悪くなく、年収にして800万円ほどあると仮定しよう。この山田家の経済規模とは父親の800万円のことだと思っていただきたい。実際には山田さんは月々の給料から住宅ローンを返済しているのかもしれないし、逆に親から残された家に住んでいるために住宅ローンの替りに定期預金や証券を買っているかもしれないが、ここではそうした事は考えず、800万円はすべて何らかの形で支出されていると考えよう。

山田家は800万円のうち、どのようにしてお金を使うべきだろうか?当然、衣食住にはお金がかかる。郊外に住んでいれば当然自動車を保有し維持するお金もかかる。山田さんはゴルフに会社の人や取引先の人たちと週末いかなければならないだろうし、山田婦人も友達とたまには高級レストランのランチを食べたいだろう。

しかし夫婦にとってはやはり子供ふたりの為の出費はバカにならない。クラスの男子みんなが通っているサッカー教室に通わせなければならないし、娘はバレー教室に通っている。さらに地元の公立中学校はあまり評判が良くないため、遠くの私立学校に通わせたいので塾に費やす金も本当に頭がいたい・・・。

うち、結局子育ての費用、学校給食から始まりサッカー教室や塾の費用すべて含めて、年間200万円ほど支出しているとしよう(実際にはこれより多い家庭のほうが多いだろうが・・・)。すると、山田家の「GDPに占める教育費」とは200割る800で、25%である。当然この単純な例えば話から解るように「教育熱心」(無論教育とはどのようなものであるかによってこの言葉の意味は異なるだろうが、ここでは言及しない)であればあるほど、この数値は高いに決まっている。習い事や塾の回数が増えれば、このパーセントは高いものになっていく。

さて、この喩え話からするに、GDPに占める教育費にはいくつかの要素が影響することが解る

1,子どもの数に依存する
2,大人のほうの事情にも依存する
3,経済全体の活動に依存する

山田家にもう一人子供が生まれれば、当然のことながら教育費は上昇する。ところが、逆に一人当たりの教育費は少なくなる可能性が高い。すでに上の子供たちの使ったものをそのまま使えるわけだし、家計全体の余裕が無くなって、支出を切り詰めなければならないからだ。

つまり、一人当たり教育費と、GDPに占める教育費の比率は、違うものを比較しているのである。

2011年6月8日水曜日

教育費の国際比較は可能なのか?(1)

多くの国では、教育の質を測る一つの指標として、どの程度の金額を支出しているかが用いられている。そして、その国際比較はOECDが長い間行っていることである。下記のグラフは日本の報道機関の物だが、いわゆる先進諸国のGDP(総経済規模)に占める教育支出の割合の比較のグラフである。

グラフ

このグラフを見る限り、日本は経済規模からすればアメリカや他の先進諸国に比べて、少ない額しか教育に出費していないように思われるのだが、この単純な比較ではいくつもの重要な点が抜け落ちている。そういった点を考慮すると、「特定の国の公的教育支出が国際的に高い(低い)」という主張は、比較する立場により結論が大いに異なるというのが筆者の概観である。

まず、この単純な主張で考慮されていない点を以下に箇条書きしよう

1,生徒一人当たりの出費はどうなっているのだろうか?子どもが多い国では、同じ教育サービスを提供していればその分出費は増えるのではないか。

2,為替レートというのは激しく変動するものだと言われているが、異なる通貨の間で金銭額の多寡を測るのはどうすれば合理的なのだろうか?この数年で1ドル120円から79円まで変化したために、単純に為替レートで比較すると、支出額は全く変化していないのに、ドル建てで見れば日本の教育費は50%も増額されたことになる。異なる通貨を持つ経済における金銭額で表される交換価値が、果たして異なる国の出費額を比較する上で適正なものなのだろうか?

3,そもそも、支出の内訳はどうなっているのだろうか?それ以上に、お金をかけていれば無条件に高い質の教育を提供していると言えるのだろうか?設備は整っていないが先生の多い学校と、先生は少ないが図書が多くてきれいな建物の学校とでは、お金の使い方としてどちらが良いのだろうか?単純にお金の額が多いとしても、賢い使い方をしてなかったら比較としては意味が無いのではないだろうか?

これから数回に分けて、以上の問題について簡単に説明してみたい。

2011年5月25日水曜日

王道を極めるためのオルターナティブであれ ~学校選択制と平等の問題~

【主張】教育政策担当: 鈴木

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

(出典: GothamSchools)


『日本への警告』の連載の途中だが、『ブロンクスのチャータースクール、州法に反して入試』(Phillips, A. GothamSchools , May 19, 2011)というタイムリーな記事があったので紹介したい。


ニューヨーク市のサウスブロンクスにあるAcademic Leadership Charter Schoolというチャータースクールが、ニューヨーク州法に反して入試にて生徒のセレクションしていることが関係者の話で判明した。州法では、学校側が能力に関係なく平等に生徒を受け入れるように、全てのチャータースクールが抽選にて生徒の入学を決めるよう定めている。しかし、この学校では、当選した生徒と保護者を学校に呼び、学力テストをした上で入学の是非を決定していた。また、複数の元職員の証言によれば、在校生でも成績の悪い生徒は、他校に移るようなプレッシャーを校長がその生徒や保護者に常に与えていたという。

私は、チャータースクールの理念に反対ではない。加速するチャータースクール推進運動シリーズの続きでいつか書こうと思っていたことだが、本来のチャータースクールの目的というのは、規制緩和により、いかなる規制が公立学校改革の妨げになっているかを見極め、その結果をもって従来の公立学校に反映することにあった。しかし、今の流れでは、従来の公立学校を潰し、オルタナティブであるはずのチャータースクールをメインストリーム化しようとするもので、本来の理念を見失っている。オルターナティブの存在意義は、王道を究めることにあるはずだ。それを忘れてはいけない。

また、公教育における「公」と「私」の境界の不透明化でも書いたように、今回問題になった学校や、ニューオーリンズのようにチャータースクールによる新入生のセレクションが合法とされている地域では、能力によって拒否されることなく誰でも地元の学校に入れるという伝統的な公立学校の概念はもはや過去のものとなっている。よって、それらの地域ではチャータースクールに自然に学力の高い生徒が集まり、プライベートセクターから莫大な資金も集まる一方で、従来の公立学校には英語を第二言語とする生徒や障害をもつ生徒が多く集まり、従来の規制により資金集めもできないばかりか地方自治体からの予算も削減されるという状況が起こる。

Zeigler & Lederman (1992) は、同様の理由でバウチャー制度に反対している。最大のポイントは、バウチャー制度が「権利」か「選択肢」かという誤った決断を国民に迫ることだ。いかなる理由によっても拒否されることなく、誰でも地元の学校に入学し教育を受けられるというのが従来の公立学校の姿であり、それを選択肢と天秤にかけることこそがおかしい。彼女らは主張する。

“the challenge in education reform remains in the improvement of public education and not in its abandonment, and in strengthening the ties between schooling and democracy rather than in severing them.”[1]

「教育改革における試練は、公教育の放棄にではなく改善に、学校教育と民主主義の関係の分離にではなくその強化にある。」




[1] Ziegler, C. L., & Lederman, N. M. (1991). School Vouchers: Are Urban Students Surrendering Rights for Choice. Fordham Urb. LJ, 19, 813.


2011年5月23日月曜日

公立学校の解体 ~日本への警告 7~

【主張】教育政策担当: 鈴木

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。


 ハリケーン・カトリーナ後のニューオーリンズの教育政策で明確なのは、従来の学校システムの解体が、極端な規制緩和と民営化を可能にしたということだ。もともと州の不十分な教育予算のために貧しいコンディションにあったニューオーリンズの公立学校だが、その80%は、カトリーナにより壊滅的な被害を受けた(Buras, 2009)。しかし、瀕死の状態であった従来の学校システムが求めていた支援の手は、いつまで待っても来ることはなかった。 

 カトリーナ直後、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)を始め、Heritage Foundationなどの保守的シンクタンク等に所属する彼の崇拝者たちが、システムが完全にダウンしているその機会に、民営化、規制緩和、そして公的部門の大幅財政カットという、ショック・ドクトリンのトレードマークとも言うべき3本柱を軸とした劇的な教育改革に取り組むべきだと主張したことは既に書いた。カトリーナから5か月後の2006年1月、教育民営化論者として知られるUrban InstituteのPaul T. Hill and Jane Hannawayは、The Future of Public Education in New Orleansニューオーリンズの公教育の未来というレポートにて、全国の学校システムのモデルとして新しいニューオーリンズ市学校システムのビジョンを描き、以下の点を主張した(Saltman, 2007)。

1. 従来の公立学校の再建を拒否
2. 教員の一斉解雇
3. 教員組合の解体
4. 教育における中央集権の撤廃
5. エジソンスクールなどの営利目的の教育企業及びその他の組織などによる学校運営の承認

  結果的に、ニューオーリンズ市の学校システムはこの主張の通りに再構築される形となった。2005年11月、カトリーナ後3カ月というスピードで、Act 35という一つの法がルイジアナ州政府によって採択された。“the state takeover bill”(州乗っ取り法)との異名をとるこの法案は、復興支援法案であるにもかかわらず、「成績不振」校の基準を上げることにより、ニューオーリンズ市のほとんどの学校を成績不振校として州教育委員会の管理下に置くことに成功した。Act 35以前の基準であれば、該当はたった13校であったはずなのに、2005年11月には全128校のうち107校が州の管理下に置かれることになった。

また、これと時を同じくして4000人の教員(そのほとんどは黒人、ベテラン、組合員)が、災害による財政カットの名目で一斉解雇され、最終的には2006年1月までに7000人いた職員のうち61人以外全員が解雇されるに至った。この同じ月に、ニューオーリンズ市長が、世界レベルの教育を目指すべく完全チャーター制学区の形成を提案したところ、そしてブッシュ政権が$488 million(約400億円)もの予算をバウチャー制度導入に提示したところを見ると、従来の学校システムの再建は、新しいニューオーリンズ市の教育ビジョンには最初から含まれていなかったことがうかがえる。

 実際に、カトリーナから4カ月が経過したこの時期に、再び開校にこぎつけた学校は市内128校のうちのたった20校、学校に復帰できた生徒は62,227人中10,000人強に過ぎなかったCapochino, 2007)。その後、十分な数の座席が確保されなかったこと、貧しいアフリカ系アメリカ人や障害を持った生徒など、一部の生徒が学校に受け入れられなかったことで数多くの訴訟が発生した。しかし、これらの学校の再建は一向に進まず、カトリーナ後1年経ってもまだ、これらの学校の生徒たちの多くは、教えてくれる先生はおろか、本や勉強するための施設さえも与えられない状態が続いた(Buras, 2009)。

ここで、先に紹介した保守的シンクタンクの一つであるUrban Instituteが発表した「ニューオーリンズの公教育の未来」レポートで掲げられた5つの主張が、今日アメリカの多くの州で現実となっていることを指摘しておくべきであろう。

まず、今のトレンドは、従来の公立学校の「解体」であって、成績の伸び悩む学校を「改善」することではない。連邦政府教育長官のArne Duncan(アーン・ダンカン)は、よく “school turnaround” という言葉を口にするが、彼の理念は実際には学校を一度閉鎖し、チャータースクールとしてリオープンすることで、“school takeover”と呼んだ方がふさわしい。現に、シカゴ市の教育長を務めていた時代に彼が主導したRenaissance 2010というプロジェクトは、成績の悪い100の公立学校を閉鎖し、営利・非営利目的のチャータースクール、コントラクトスクール、マグネットスクールとしてリオープンし、学区の規制に捉われずに運営することを承認するものだった(Saltman, 2007)。アメリカ教育界を翻弄している連邦政府主導のNo Child Left Behind (NCLB)も基本的には同じ路線だ。NCLBは、成績の悪い学校に対してはサポートではなく、段階的な罰を与える。そして、最終的には学校閉鎖、そしてチャータースクールとしてのリオープンに至る仕組みだ。また、NY市でも今年だけで合計27の学校が閉鎖されていて、そのほとんどは来年度からチャータースクールにとって代わられることになる(Gotham Schools, April 29, 2011)。

 NCLBに関して、Alfie Kohnが次のような指摘をしている。

“NCLB itself appears to be a system designed to result in the declaration of wide-scale failure of public schooling to justify privatization.”[1]

NCLBは、民営化を正当化するために、公立学校教育が広範囲で成績不振の結果を生みだすようにデザインされたシステムのようだ。」
 言うまでもないが、これは先に紹介したAct 35の説明そのものであり、Saltman (2007)やTaubman (2009)が、NCLBを教育政策におけるショック・ドクトリンの適用 ― つまりアメリカの教育が危機的状況にあるということをNCLBが証明することによって劇的なショックトリートメントを可能にすること ― と分析するのは、まさにこのような理由からだ。フリードマンの言葉が思い出される。

「現実の、あるいは仮想の危機だけが真の変化を生む」


変化は確実に起こった。現在、既に都市としてアメリカで最多のチャータースクールを誇るニューオーリンズだが、2012年までにはおよそ75%の公立学校がチャーター化されるという。


あとがき
ここまで、いかに従来の公立学校システムの解体がバウチャー制度やチャータースクールの大規模な導入による劇的な教育改革を可能にしたかを述べてきた。今後、これらの取り組みが生む教育機会の不平等を考えていきたい。


[1] NCLB and the Effort to Privatize Public Education, in Many Children Left Behind, Deborah Meier and George Wood (Eds.), Boston: Beacon, 2004, pp. 79-100.

公教育における「公」と「私」の境界の不透明化 ~日本への警告 6~

【主張】 教育政策担当: 鈴木

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。




「本当に危機に瀕しているのは教育における
真のパブリック(公共)という概念そのものだ…。」

(“In fact, the very concept of a truly ‘public’ education is at stake…”)


 
 これは、Kristen Buras2009年の論文(We have to tell our story’: Neo-griots, racial resistance, and schooling in the other south.)からの引用だ。「公教育」とその「概念」とを区別しているところが実に興味深い。

2005年のハリケーン・カトリーナ後、ルイジアナ州ニューオーリンズでは、州政府だけでなく、連邦政府やその他学校選択制及び民営化の実現を追求する様々な組織の支持を受け、アメリカ史上最大の公立学校チャータースクール化が進められた。非営利団体だけでなく、営利目的の会社も広く招かれ、公的資金により実に多くの学校が新設された。それにより、学区制は廃止され、選別されることなく誰でも地元の学校に入れるという伝統的な公立学校の概念はもはや過去のものとなった。

あれから6年、今ではチャータースクールのない学校システムを想像する方が難しいほど、チャータースクールは着実にアメリカの教育システムの中で市民権を得てきた。チャーターの他にも、私立学校に通う子どもを持つ家庭に公的資金からの補助金や免税が与えられるバウチャー制度なども、公教育のディスコースの中でよく語られるようになった。つい昨日も億万長者によって展開されるバウチャー制度のこんな記事があったばかりだ。まさにここに見られるのは「公教育」という概念の変遷と拡大であり、「公」と「私」の境界の不透明化だ。これは、今日のアメリカ教育を支配する新自由主義的市場型教育改革を分析するにあたり非常に重要な視点だと考えている。これ念頭に置き、話を進めていきたいと思う。

(続く…)