2010年10月13日水曜日

加速するチャータースクール推進運動2 ~アメリカ教育界を蝕む病理~

(教育政策担当: 鈴木)



 前回に引き続き、デイビス・グッゲンハイムの新作映画、Waiting for a Supermanを通して、アメリカで加速するチャータースクール推進運動を考えていきたい。

チャータースクールに関しては議論すべき点が数多くあるのだが、今回はこの映画を通して見えてくる、今日のアメリカ教育界を蝕んでいる一つの病理について考えてみたい。

それは、教育に関する評価が全て「テストの点数」という極めて狭い定義ではかられていることだ。Waiting for a Supermanでも、良い教員はただ単に生徒の点数を挙げられる教員、悪い学校は生徒の点数が全体的に低い学校という評価の在り方を前提として教育改革が語られている。

もちろん、子どもの学力は教員や学校評価の大事な要素だ。ただ、学力は教育の一つの側面にすぎない。ましてや、「学力」が確かに現在の標準テストで測れているのかどうかにも疑問が残る。2002年1月から施行されているNo Child Left BehindNCLBによって、連邦政府が全ての州に測定義務を貸しているのは4年生と8年生(日本でいう中学2年生)の国語(読み、書き)、数学、科学の3教科のみ。これが現在アメリカで定義されている「学力」だ。この3教科でさえ、現在のテスト内容では子どもの学力が正当に評価できないのでは、と多くの教育者が問題視している。

また、生徒がいくら社会や体育、そして音楽などの教科で突出していても、その子の「学力」としては全く評価されないことになる。ハーバード大学の発達心理学者、ハワード・ガードナーHoward GardnerFrames of mind: The theory of multiple intelligences という本によってTheory of Multiple Intelligences(多重知能理論)を打ち出したのが1993年。アメリカには、「インテリジェンス」というものが一つの狭い定義に押し込められていて、そのため多くの「知性」に富んだ子どもたちが劣等生のレッテルを貼られていると主張し、アメリカだけでなく世界における教育価値観を揺るがした。(ちなみに、Joel Kincheloeらが、ガードナーの理論を元にして教育における「知」の不平等について非常に興味深い議論を展開している。Kincheloe, J. L., Steinberg, S. R., & Villaverde, L. E. (Eds.). (1999). Rethinking intelligence: Confronting psychological assumptions about teaching and learning. New York: Routledge.)しかし、実に10年の間にアメリカは発達心理学とは逆行した教育政策を展開するようになったのだ。

それだけではない。学校カリキュラムにおける思わぬ弊害も出てきている。生徒の成績がなかなか上がらない都市貧困地域や農村地域では、4年生と8年生では標準テストで評価される3教科のみしか教えていない事実が発覚している。結果、社会をまる2年教わっていない生徒も出てきているということになる。義務教育というものについて考えさせられてしまう。NCLBが推進する標準学力テストとアカウンタビリティーの弊害については、デイビッド・ベルリナー(David Berliner「狭まるカリキュラム」“narrowing of the curriculum”)として面白い論文を発表している。(Berliner, D. (2009). MCLB (Much Curriculum Left Behind): A US calamity in the making. The Educational Forum, 73, 284-296.

今日アメリカで施行されている教育政策やアメリカ国内における教育のディスコースのほとんどは、上に見られるような「学力=3教科の点数」という前提の下に行われていると言って過言ではないだろう。

よって、ただやみくもにチャータースクールを推進する前に、まず教育と学校の意義についてしっかりと議論する必要性がある。もしGardnerKincheloeらが主張するように、「知性の民主化」を図るとするならば、今の教育評価を根本から見直されなければならない。



 今、問われている事、それは「教育とは何か?」という教育の本質を問う問題だ。


(続く…)

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