教育政策担当: 鈴木
2001年に No Child Left Behind (NCLB) の名称で再採択されて以来、アメリカの教育の基本的枠組みとなってきた Elementary and Secondary Education Act (ESEA - 初等中等教育法)。大学以前の初等中等教育改革は、政治的に二分された議会が歩み寄れる数少ない分野だとして、オバマ政権はこの法案の更新に向けて全力を尽くしている。
つい一昨日(2月7日)、米連邦政府教育長官 Arne Duncan (アーン・ダンカン) は、ESEA の更新の必要性を説くビデオメッセージを Facebook に掲載した。この法案は批判も多く、様々な課題点をいかに克服するかということにメッセージの焦点が置かれている。課題と対応策は以下の通りだ。
1. 優れた教育実践を伸ばすことより、悪い実践を罰することに重点が置かれている。
ß 罰するのではなく、良い実践に報酬を与えていくべき
2. 実に細部にまで至る処方を押しつける窮屈な政策である。
ß 一般教書演説でオバマ大統領が、「この時代における最も有意義な教育改革」と豪語した Race to the Top のような柔軟性を与える
3. 結果的に多くの州がペナルティーを避けるために学力標準を下げている。
ß 40以上の州が既に Common Core Standards を自主的に採択している
4. 評価の対象は数学と国語の2科目だけであるため、他教科が軽視される傾向を生んでいる。(特に、成績が伸び悩む地域や学校では他教科にかける時間が大幅に削減されている。)
ß 数学と国語以外の教科が軽視されないようにする。
これらの他に、ダンカンは一般教書演説でオバマ大統領が述べた「教職の地位向上」を特に強調している。韓国を見習い、アメリカでも教員を 「国家の建築家」 (“nation builder”)として敬わなければならないと言う。
確かにその通りだ。尊敬できない教員からは子どもは何も学ぶことはできない。そのためにも、教員が尊敬されるような社会体制を築いていくことは非常に大事だと言える。
しかし、ではそのような社会体制を築くためにいかなる政策を取っていくのか。ダンカンは、最初の課題の対応策として述べたように、優秀な実践に報酬を与えることを強調する。「子どもたちのために劇的な効果を追い求めるために、まず第一に勇気、そしてキャパシティーと真摯に取り組む姿勢を兼ね備えている自治体に、我々は過去に類を見ない額の資金を投資するのだ。」
何故 「第一に勇気」 なのか。過去のオバマ政権のスタンスを見れば、これが、柔軟な教員の解雇を意味していることがすぐにわかる。ロードアイランド州である教育委員会が、一つの学校の教員を総解雇した際、オバマは賛同の意を表明したし、Race to the Top でも school turnaround (底辺校の再生) と称して、そのような教員解雇及びメリットペイを支持した。つまり、オバマ政権が選択する 「教職の地位向上」 のための手段とは、柔軟な教員解雇及びテストの点数によるメリットペイに他ならない。
教員評価が何故難しいか、またテストの点数に依存するメリットペイの様々な問題点については、『全米に広がる教員評価を考える 』で述べた通りだ。また、オバマ政権は一貫してチャータースクールの増加を支持してきた。先に述べた課題1の対応策からは、今後一層、成果を出している一部(17%)のチャーターに税金を投資、支援、フランチャイズする可能性も十分うかがえる。更には、オバマ政権は alternative certification programs (非正規教員免許認定プログラム) も支援してきた。これらの政策は、どちらも公立学校に勤める正規の教員にとっては、自分たちの立場を危険にさらす脅威である。
「将来の選択肢に迷っているんだったら教員になるんだ。国が君たちを必要としている。」と一般教書演説でアメリカ中の若者に呼びかけたオバマ大統領。きっと今現場で働いている教員は、「若い層を入れることによって我々を早く追い出そうとしているのだ」と思うに違いない。前回の記事で紹介したYong Zhaoの言葉が思い出される。
「目的地は正しいが、誤った道を選んでいる。」
仕事の評価をテストのみで下し、より解雇をし易くし、チャータースクールや非正規免許制度の促進によってプレッシャーをかけ、結果として教員に、「いくらでも代わりはいる」というようなメッセージを送り続けてきたのがオバマ政権なのだ。
*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。
教職の地位向上に関連して、「なぜ最高の人材は教師にならないのか」という興味深いブログを見つけました。
返信削除ブロガーのRobert Schwartz自身、公立学校で16年間教えた経験があります。教師であったことに悔いはなく、今でも財産を作ることよりより良い社会を作ることに関心があると述べながらも、Googleのオフィスを訪ねて若者が教職よりGoogleを好むのも当然だと感じています。
曰く、「教師になると決めることは、物質的な富より社会に貢献することが重要であると理解することだが、正直言って最高の人材がその決断を下せるほど賢いかどうかは分からない」。教職=聖職=人並みの欲を持つこともダメ、という都合のいい理屈にうまく異論を唱えていると思います。
以下が彼のまとめた、「最高の人材が教師にならない」4つの理由。
1.お金の問題。将来的にマイホームを持てるくらい収入が得られるのか。
2.働く環境の問題。公平な評価がなされ、知性や創造性が発揮でき、命令されたことでなく自分がいいと思うことをやってみられる環境で働けるのか。
3.教職の地位の問題。教師は最も重要な仕事だと誰もが言うが、自分の子どもを教師にしたいとは思っていない。
4.経験則の問題。彼ら自身が古い学校システムの中で成功してきているので、多くの子どもたちにとって勉強することが困難であることを見過ごしがちである。また指導において考えられる有効な手段は打ってきたとはいえ、実際に意味のあるものは少なかったことにも気づいていない。
Yumeさん、
返信削除興味深いコメントありがとうございます。Schwartzの意見はとても共感できます。彼の指摘から見えてくるのは、時代の変遷と共にアイデンティティークライシスに陥った教職の実態ではないかと思うのです。
社会における「成功」の定義が、いかににお金を稼ぐか、いかに多くの物を所有するのかという、極めて狭いものとして捉えられる傾向が強まる一方で、教職は「聖職」という地位さえも失ったように思います。周囲の見方だけではなく、やりがいという点においても、学力標準化に伴うテスト至上主義が進む中、教員は狭い教育的価値観に閉じ込められ、創造的な教育に取り組むこともできなくなってきています。このように魅力の欠ける教職とGoogleを比べたら、優秀な若者が後者を選ぶのも、残念ながら当然のことなのでしょうね。
教員の社会的地位の向上は、より良い教育を行うに当たり不可欠だと思います。そのためには、少なくとも国や大人たちが、教員を大人の代表として敬意を持って接することが大事なのではないでしょうか。不幸にも、オバマ政権による教員に対する今までの冷たい扱いは、全く逆の効果を生んできたと言えるでしょう。
YumeさんとDaiyuさんの仰る通りだと思います。
返信削除この間Teacher Empowerment-教師の政治権力の強化-というトピックについての記事をいくつか読みましたが、その中のひとつに「一般的に人々の興味が個人の自由の獲得・創造から、個人の財産の生産・配分・消費へと移り変わっている」という記述がありました。私自身教育者を志すにあたって、自分の教育に対する哲学的思想と物質的・経済的野望との間で思い悩む事が多々あります。そして、Schwartzが提示しているような教職に対する否定的なイメージが、私の中にもあります。
これから国レベルで教育を改善・改革していくにあたって、このようなイメージの払拭と、それを人々に植え付けてしまう社会や政府の対応に変化を求める必要があるのは確かです。しかし、それと同時に、教員自らも変化を促すための行動を起こすことが重要だと思います。例えば、自分の教育哲学や教授法の見直し・改善、そして生徒たちや保護者、他の教員とのよりよい人間関係の創造に目を向けて、一人ひとりが柔軟性、多様性、そして寛容性のある価値観を持った魅力的な人間を目指すべきなのではないでしょうか。「先生みたいな人になりたい」と言われるような、ポジティブな影響力を持つ教員を、国を挙げてで育てていくべきだと思います。
そして、「教員の人間性や教育理念に幅を持たせる」ということにおいて、今の数字データに基づいた学力評価の重要性を根本的に見直す必要があると思います。数字では測れない「学力」というものの認識をもっと広めていくためにはどうしたらいいのか、教員一人一人がじっくり考えていく事が大切ですよね。